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少しだけ、自分語りでもしてみようと思います。私は|広島県尾道市《ひろしまけんおのみちし》にある|因島病院《いんとうびょういん》で産まれました。|出生《しゅっせい》から7歳までは|愛媛県越智郡弓削下弓削《えひめけんおちぐんゆげしもゆげ》(|現愛媛県上島町弓削下弓削《げんえひめけんかみじまちょうゆげしもゆげ》)に住んでおりました。私の家族構成は父親、母親、私、弟二人の五人家族でした。私は長男でした。今思ってみてみると、長男であること自体がちゃんとした認識違いである事が私の中では自明であります。かの有名なイチローさんの本名が|鈴木一朗《すずきいちろう》にも関わらず、次男だという様に、私も長男だけれど次男、という風にも聞いたことがございます。
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私の父親は、弓削にある学校の先生をしておりました。なので、私たちはそこの|官舎《かんしゃ》で|暮《く》らしておりました。近くには|海岸《かいがん》があり、よく泳ぎに行っていたように思います。父親は泳ぎが得意で、私たちを連れて、自分の泳ぎを私達に見せていたように思います。現在の父親にその|面影《おもかげ》はございませんが、当時はガタイが良く|筋肉質《きんにくしつ》な父親でした。|私達《わたしたち》|兄弟《きょうだい》の中では、一番下の弟がその面影を最も良く残しているように思われます。私にその面影はあまりございません。
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当時の私は|弓削町立弓削小学校《ゆげちょうりつゆげしょうがっこう》で|勉学《べんがく》に|励《はげ》んでおりました。そこでは、当時は水泳の授業が海で行われており、とても楽しかったことを覚えております。水泳大会もあり、私は小学一年生で200メートル泳ぐことが出来ました。500メートル泳ぐと完泳だったのですが、当時は天気が悪く|荒波《あらなみ》の中で、とてもしんどかったことを|覚《おぼ》えております。当時|共《とも》に泳いでいた小学生たちは、さぞかしきつかったことだろうなと思います。現在の私は、200メートル泳ぐことは楽ではないなと感じております。
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小学生の頃は、『うしお』という俳句・短歌・詩・作文を|東予地区《とうよちく》で|纏《まと》めた|冊子《さっし》が|出版《しゅっぱん》されておりました。この『うしお』ですが、当時の私にとっては大切な宝物の一つであり、毎回楽しみにしておりました。友人や自分自身が|載《の》ると、なんだかちょっとした有名人になったような気がして|喜《よろこ》びを感じておりました。この時の喜びは、現在の自分の中の執筆活動に似ている部分があるなと感じております。|偶《たま》に、入選や|佳作《かさく》にも選ばれておりました。
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|官舎《かんしゃ》から小学校まで、約2キロメートル程の|道程《どうてい》がありました。小学一年生の私にはとても|過酷《かこく》であり、「なんで毎日、こんなに重い物を|背負《せお》って登校しなければいけないんだろう」と思っておりました。今思えば、その経験があったからこそ足腰が強く|鍛《きた》えられたのかと感じております。|後述《こうじゅつ》致しますが、私は走ることが好きであります。|出不精《でぶしょう》ではございますが、週に3回、ジムに通ってジョギングしていた頃もありました。何故かわかりませんが、同じ所を一定のスピードで走るランニングマシンの方が、|外界《がいかい》を走るよりも|好《この》みます。
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住んでいた|弓削島《ゆげじま》には、信号機が一つもございません。ですから、私たちは警察官の|方々《かたがた》が用意して下さった|模擬《もぎ》信号機で、|横断歩道《おうだんほどう》の練習をしておりました。弓削島からフェリーで海を渡ると、|因島《いんのしま》がございます。そこには当然、信号機がございます。ですから、初めて信号機を|観《み》た時は、青・黄・赤の信号機がとても楽しく感じました。このエピソードは、私の『|百音短詩《ひゃくおんたんし》』|内《ない》でもご説明はしております。スタントマンが来て、いろいろとして下さっていたのも、今思えばすごくわざわざ島まで来てご|足労《そくろう》されていたのだなと感じます。
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小学校1年生〜小学校2年生へと進級する手前、私は|弓削町立弓削小学校《ゆげちょうりつゆげしょうがっこう》から|吉海町立吉海小学校《よしうみちょうりつよしうみしょうがっこう》へと転校致しました。弟が小学1年生で私が小学2年生の時でございます。弟は入学式で6年生に手を引かれ、入学式を迎えておりました。その後、|何某《なにがし》か時は流れ、私は高校生になります。その間のことは中々に思い出したくございません。私にとっての小中学生時代は、余りによくないものだった様な気が致します。その中でも、楽しかった思い出を思い出して書き出しております。
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|吉海町立吉海小学校《よしうみちょうりつよしうみしょうがっこう》に通っている頃、学校内に新しい遊具が備わりました。竹馬、一輪車、ホッピングなど、色々な遊具が備わりました。昔は10分がとても長かったので、休み時間になると外に出て遊んだりもしていた気が致します。何かの記念イベントで空撮撮影もございました。皆で人文字を作って、撮りました。その写真も今やどこにあるのかも分かりませんが、楽しい思い出の一つとして残っているものではございます。思い出すのが中々に大変なのですけどね。
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吉海小学校の時の部活動として、陸上・駅伝・ミニバスケットボールがございました。季節毎に持ち回りで行っておりました。私はそのどれもに参加しておりました。陸上では50メートル走と50メートルハードル走、駅伝では1500メートル走や2000メートル走、ミニバスケットボールではフォアードをやっておりました。当時の私からしたらどれも過酷なものでしたが、負けん気は人一倍強かったので、一生懸命に頑張っておりました。中でも駅伝は得意競技で大会レギュラーにも選ばれました。
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|吉海町立吉海中学校《よしうみちょうりつよしうみちゅうがっこう》に通っている頃に、少年式というものがございました。この学校行事に関しては、私の中の別作品にも書いております。14歳となり、大人としての自覚も芽生えてきた頃でございました。その頃に食べたお餅がとても美味しかった記憶は|筆舌《ひつぜつ》に尽くしがたいです。この様な小中学生時代を経て、私は|愛媛県立今治北高等学校《えひめけんりついまばりきたこうとうがっこう》へと進学いたします。その頃の思い出は、とても印象深いものばかりでありましたので、しっかりと書いていきます。
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私が|今治北高校《いまばりきたこうこう》へ入学した一番の|理由《わけ》、それは女子にモテたかったからでございます。その他にも、自分の|内申書《ないしんしょ》がそこそこだった、家からそれほど遠くなく、自転車で通えた、中学の同級生も何人か行っていた、などの理由がありますが、そこはそこで大した理由ではありません。今治北高校は旧女学校であります。|男女共学《だんじょきょうがく》となって年数は約45年ほど経っていたとはいえ、男女比が約4:6と他の高校と比べても高く、これならば中学で何の巡り合わせもなかった私にも春が訪れるであろうと期待しておりました。
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|今治北高校《いまばりきたこうこう》に入学した私に待ち受けていたのは、天国でした。学力こそ|最低《さいてい》ランクで入学したものの持ち前の気力・体力・自信力で乗り越え、|悠々自適《ゆうゆうじてき》な生活を送れました。部活動は弓道部に入りました。私は高校三年間、弓道に“命を捧げた”といっても|過言《かごん》ではないくらい、弓道に|心力《しんりょく》を|注《そそ》ぎ打ち込みました。高校生活は、弓道人生だった。とも言えます。弓道部に最初に入部した理由こそ、体力の|増進《ぞうしん》に努めたい! という理由でしたが、まあ面白かった。女性にモテたかった自分は、弓道によってどこかに吹き飛んでしまいました。
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|今治北高校《いまばりきたこうこう》は当時は全部で8クラスありました。私は1-4にクラス分けされました。中学の時の同級生も居りましたが、クラスではあまり仲良くはしませんでした。後は異性の同級生でしたので会話もままならず、初めの頃はぽつんとしておりました。ですが、それも|一時《いっとき》のことでクラスの友達が出来、その友達と共に部活動巡りをしておりました。私は当初から弓道部に入りたいと思っておりました。体力増進もそうですが、弓道という競技は愛媛県では高校生になってから始める人が多かったからです。誰もが皆が初心者、これなら私でも食らいついていけることだろう、そう思い入部を決意致しました。
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|今治北高校《いまばりきたこうこう》の弓道部に入部した私に待ち受けていたのは、|基礎体力向上《きそたいりょくこうじょう》のための|訓練《くんれん》でした。|声出《こえだ》しや|筋《きん》トレ、ランニングなどを|何カ月《なんかげつ》にも渡ってやっておりました。同じ様に入部した仲間も何人か|辞《や》めていきました。私はどうしても|一度入部《いちどにゅうぶ》した部活は辞めないぞという決意がありましたので、苦難の|道程《どうてい》ではありましたが、|着実《ちゃくじつ》にステージを上がっていきました。ここで|培《つちか》った|精神力《せいしんりょく》は、現在でも|凄《すご》く役に立っております。ただ、当時は|自分本位《じぶんほんい》が|過《す》ぎた性格でありましたので周りが良く見えていなかったことに関して、深く反省しております。
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話は戻りまして、私はそんな調子でしたので、高校時代は「楽しい」しかございませんでした。今思うと、苦しいことも沢山ございました。泣きたくなるような耐え難いことも、もちろんございました。ですが、過去のことは全てが現在の|糧《かて》となり息づいている、私自身は|楽天家《らくてんか》ですので、そう思っております。これからの人生も浮き沈みございますが、|一KOH《いっこう》をやっていきます。もちろん、このエッセイはここで終わりではございません。
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1-4のクラス担任は確か|濱本《はまもと》先生という方でした。女の先生で、とても若い先生でした。1-4クラスは先生と生徒が和気あいあいとしていて、とても良い雰囲気のクラスが出来ていたように私は感じておりました。のちに3年間クラスを共にする生徒も居て、とても楽しかったです。こういう最初の1年間を過ごせたからこそ、思い出が楽しいモノばかりになったのではないかと私は感じております。その頃から、もう20年以上の月日が流れてしまいましたが、|皆《みんな》はどんな人生を過ごしているのか気になります。
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私の実家は|大島《おおしま》という島であります。そこから|今治北高校《いまばりきたこうこう》へ行くのに自転車とフェリーを使って通学しておりました。総通学時間は1時間でしたが、その半分はフェリーの中という、楽な通学だったとも言えます。フェリーの中では、皆が思い思いのことをしておりました。私は、宿題をフェリーの中ですることが日課になっておりました。このフェリー時間こそが、私に|休息《きゅうそく》と|安寧《あんねい》を与えていたとも言えます。通学路は山を登って下りてがございましたので、大変でした。これこそが、|自転車通学RTA《じてんしゃつうがくあーるてぃーえー》の最大の難関だったとも言えます。
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朝のフェリー乗り場は|大渋滞《だいじゅうたい》でした。当時は|来島海峡大橋《くるしまかいきょうおおはし》を自動車で渡るよりも大分フェリーの方が安かったので、皆がフェリーを使っておりました。現在はそのフェリーは|運航停止《うんこうていし》しておりますが、あの時代には無くてはならない重要な交通の要でございました。私は大島から一人で|今治市内《いまばりしない》に外出することは|殆《ほとん》どありませんでした。ですので、今治市内の|地理《ちり》も|全《まった》く理解できておりませんでした。今思えば、当時のあの|環境自体《かんきょうじたい》が私を成長させていたのだなと実感致しております。当時はそのフェリーから花火を|観《み》ることも出来ておりましたね。
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フェリーは定期券で乗っておりました。その方が|大分《だいぶん》と安いからです。大体の学生は定期券で乗り降りしておりました。|流石《さすが》に毎日のように乗るフェリーですので、そこは確実にやっております。こういう私ですが、定期券は|失《な》くしたことがございません。これは、携帯やスマホにも言えることで、こういうモノは失くさない確信めいたモノを私は持っているのかもしれません。他の物は失くします。鉛筆や消しゴム、シャーペンやはたまたコンパス、筆箱に|至《いた》るまで失くした記憶ばかりです。そういえば、お気に入りの|矢筒《やづつ》、あれは|今治市営弓道場《いまばりしえいきゅうどうじょう》に|置《お》き忘れたままだったな。
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大島フェリーは割と大きな|旅客運搬船《りょかくうんぱんせん》であります。自動車だけでも50台は乗せられます。私は、自転車をそのまま自転車に積んで載っておりました。当時は、自転車を2台持ちして大島の|下田水港《しただみこう》と今治の|今治港《いまばりこう》で|乗《の》り|継《つ》ぎしている方もかなりおりました。私は、乗り遅れた時に定期券が|客人《かくじん》のみだと|余分《よぶん》に払わなければならないと思いましたので、自転車定期券を使っておりました。
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大島フェリー内では、大勢のお客さんが乗っておりました。大島の人口は年々減少しておりましたが、それでも客席がぱんぱんになるくらいの人達が載って居りました。フェリー側もそれを完全に熟知しておりますので、様々に|配慮《はいりょ》があったなと、今現在、思い返しております。現在は、大島フェリーの運行は完全に無くなりました。代わりに道の駅である“いきいき館”が出来ました。しまなみ海道が開通した事に依る|功罪《こうざい》の一つでございます。
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|今治港《いまばりこう》をフェリーから降りて割と直ぐの所に|今治商店街《いまばりしょうてんがい》がございました。現在はシャッター街となっておりますが、当時はまだまだ|賑《にぎ》わっておりました。私は元来から本を読むのは好きでしたので、商店街にある本屋さんには、ちょくちょく足を運んでおりました。本屋といえば、大島にも本屋がございましたが現在は一軒も無くなり、私自身としては寂しく感じております。大島も年々、人口の減少が続いております。島の暮らしは良き面もございますが、利便性は|乏《とぼ》しいものです。
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|今治港《いまばりこう》周辺は、当時は活気がございました。活気があった、とは言っても私目線から見て、というだけでございます。高校生の頃の私は弓道に|邁進《まいしん》しておりましたので、結局のところ、今治市のことなど何も見ておりませんでした。当時を振り返ってみてみると、今治の地に|根付《ねづ》いた|何某《なにがし》かの人や物で|溢《あふ》れております。当時と比べて、全く変わらないお店もございます。当時とは、全く風景の変わった場所もございます。ヒトである限り、ヒト目線で物事が進んで行くのもやむなしと私個人は思います。
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|今治北高校《いまばりきたこうこう》は男性は学ラン、女性はブレザーでした。女性の首に巻くリボンみたいなネクタイが、可愛いなと感じておりました。ある時、当時の私の写真を掘り起こしたことがございましたが、現在と比べて美男子に映りました。カメラマンさんが、綺麗に撮って下さって、とても感謝しております。同級生に写真屋の息子がおりましたが、こういう風に親の仕事を眺めるのは、恥ずかしいことではあるなと私は感じました。大人になって、そういうことも良さそうだと感じております。
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私は将来は「|長大橋《ちょうだいきょう》の設計がしたい」そう思っておりました。何故そう思ったかというと、弓削島に住んでいた頃に、|弓削大橋《ゆげおおはし》という橋の建設風景を間近で観ていたからであります。そこから大島に移り、|来島海峡大橋《くるしまかいきょうおおはし》の建設風景も観ておりました。なので、将来は「そういった仕事に|就《つ》きたい」と|漠然《ばくぜん》とですが思っておりました。それが、何故現在のようなことをしているのかについては、また後ほど書かせて頂きたいと思います。とにかく、そういう事でしたので、勉強も怠ってはおりませんでした。
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|今治北高校《いまばりきたこうこう》では、2年生になると文系と理系にクラス分けされます。私はというと、意外に思われるかもしれませんが理系クラスでした。その理系クラスの仲間達と過ごした二年間は、私にとってとてもかけがえのないものとなりました。何故ゆえ私が理系クラスに入ったかと言いますと、将来の夢が理系だったことは元より、何よりも数学が得意であり、何よりも英語が苦手だったからであります。国語はそこそこでございました。
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|今治北高校弓道部《いまばりきたこうこうきゅうどうぶ》には、顧問の先生の先輩というコーチがおりました。時折顔を見せては厳しくも優しい指導をして下さるコーチでした。私は怖くて堪りませんでした。夏には夏合宿、冬には|百八射会《ひゃくはちしゃかい》と厳しい行事もございました。その時の経験は、現在の自分の“継続”するチカラに繋がっております。2年半という短い期間ではございましたが、弓道部での経験はとてもかけがいのないものではございました。社会人になり、北高弓道部の後輩にも出会いましたが、その時にもその名物コーチは居たそうです。
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私の数学の成績は、|今治北高校《いまばりきたこうこう》でも抜群に良かったです。時には学年トップを取ることもあり、理系が得意なんだろうなとずっと思っておりました。しかしながら、ふたを開けてみると現在は執筆業をしているのですから、人生とは不思議なものです。数学教師が学年主任で特に厳しかったというのも要因の一つだったのではないかなと思っております。前述を致しましたが、国語の成績は良くも悪くもなく、そこそこ出来るという感じでございました。読むのは昔から好きではございました。
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今治北高校の一大行事の1つに、体育祭がございます。体育祭は生徒主導で行っておりました。確か、『青龍』『赤帝』『紫電』『|黄鵠《こうこく》』の4チームに分かれて行っていたように思います。私は1年生の時は『黄鵠』チームになっておりました。2クラスが合同でチームとなり勝負をするわけですが、私自身はかなり乗り気で行っておりました。そういうことが好きであり、楽しかったからです。ですが今考えてみると、ちょっと前に出過ぎていたなと思い返しております。
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今治北高校の体育祭について前述致しましたが、もう一つの一大行事として、文化祭もございました。文化祭は各クラスごとに催しものを用意して出店することもしておりました。当時の私にとっては文化祭よりも体育祭の方が|浮足立《うきあしだ》っておりましたので、あまり覚えておりませんが、楽しかった行事ではございます。三年に一度、学外者にも開放しており、その時が最も|賑《にぎ》わっておりました。私の中では3-8クラスで行ったメイドカフェが強く印象に残っております。
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今治北高校弓道部の備品は、出張販売している弓具屋さんで購入しておりました。最初に買ったのは道着と弓懸けだったように思うのですが、当時は両親にこのような高い買い物をさせてしまい、申し訳ないという気持ちで一杯でございました。現在、私は自由に使えるお金が増えましたが、お金というのはヒトに付きまとって離れないものだと強く感じております。私も当時から、お金にはかなりがめつく執着していたものだと反省を致しております。
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今治北高校の弓道場の横には、テニスコートがございます。私の弟二人は、二人とも私と同じく今治北高校に進学しておりました。中で、真ん中の一学年歳下の弟は、硬式テニス部に入部しておりましたので、偶に弟が硬式テニス部で活動しているのも眺めておりました。もし弓道部に入らなければ、硬式テニス部にも仲の良い同級生もおりましたので、入部してみるのも良かったのかもしれないと今さらながら思います。逆に、弟は弓道部にも興味を持っていたみたいではあります。
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今治北高校には学期に一回、身だしなみ検査というものがございます。私はそれが不得意で無くならないかなと思っておりました。高校生としての身だしなみというものがああいうものだという事を理解せずにただ乗り越えれば良いとしか思っておりませんでした。その為、大学進学を機に独り暮らしを始めてからは、完全に衣食住が|疎《おろそ》かとなり、見栄えの良くない生活を行っておりました。ちゃんとそういうことは身に着けておくべき事でした。
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今治北高校に在籍している時、我が母校は初めて春のセンバツ高校野球全国大会に出場致しました。この頃は“ハンカチ王子”こと|斎藤佑樹《さいとうゆうき》投手が時代を|席巻《せっけん》致しておりましたが、その中でひっそりと出場しておりました。甲子園球場にも足を運びました。北高グッズ販売がされており、何だか不思議な気持ちになりました。初めて訪れた甲子園球場はテレビで観るよりも狭く感じました。私の母校は一回戦は突破致しましたが、二回戦は逆転負けしてしまいました。
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高校三年生の時、私は弓道部の主要レギュラーとして活躍するようになりました。高校弓道の団体戦は5人立ちにて試合が行われておりました。私はその中で“落ち”という5人立ちの一番後ろを任されておりました。当時の私はなんとしても団体戦で全国まで行きたいと思っておりました。弓道メンバーの皆が一丸となって取り組まなければ、到底無理ですが私は私さえそう思っていれば辿り着くだろうと考えて、とにかく自身の腕ばかりを鍛えておりました。思えば、そう思い続けることはしんどかったなと感じております。
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今治北高校での私のクラスでの立ち位置は、正直言うと面倒くさがられるけれど、居たらクラスが明るくなるムードメーカーでした。これは自己判断に依るものですので、実際はどうだったのかは知る|由《よし》もございません。ただ、誰とでも分け|隔《へだ》てなく接する存在でいようとは、心掛けておりました。何故そうありたいと思ったかと言いますと、敵を作りたくなかった、その一点に尽きます。なので、高校生時代は|素《す》ではなく、高校生|一KOH《いっこう》を演じていたに過ぎませんでした。
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高校三年生になり大学進学への試験勉強が本格化する中、私の中心は相変わらず部活動一色でした。結局、私は大学進学への試験勉強よりも部活動の方が楽しかったのです。国立大学志望でしたので、当時のセンター試験の勉強を中心に行っておりました。高校一年生の頃から、「広島大学へ行きたい」と思って勉強はしておりました。結局、その夢は叶いませんでしたが、広島大学進学の夢は叶わないままで終わって良かった、と当時を振り返って私自身は思っております。
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高校三年生になり、私史上最も忙しい時間となっておりました。試験勉強に部活動に学校行事に、全てについて完璧に|熟《こな》したいという気持ちが強かったです。目が回るほど忙しかったので昔の記憶を辿りながら本エッセイは書いておりますが、まだまだ想い出の扉が開かれない状態でおります。そういえば、修学旅行にも行きましたが、その時の記憶も全く残っておりません。自分にとっての印象深い想い出は、何気ない日常の一場面の中にこそあったのだなと、本エッセイを書きながら思っております。
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某日、私は大学入試センター試験に臨みました。試験会場は愛媛大学でした。私は前日からホテルを友達と予約しておりました。一年に一度の大勝負、私はとても緊張致しました。今思えば、例えその時に失敗しても次がある、という気持ちで臨んだ方が上手くいったなと思っております。試験結果としては、得意の数学が思うように伸びず、予測よりも低い点数になりました。このセンター試験の結果を持ってして、広島大学を受けるのは無謀だと担任の教師に言われ、私は泣く泣く当該大学の志望を諦めました。
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大学センター入試を終えた私は、前期試験に向けて勉強を始めました。途中、近畿大学の入試試験を受験し、見事に合格することが出来ました。なぜ近畿大学に入りたかったかと言いますと、私本来のレベルに合っているのではないかと感じたからです。今思えば、それは最適解であり、その後に、国立大学の推薦入試を担任教師に言われて受験するのですが、その流れは良くなかったなと感じております。やはり、大学選びは自分自身でするべきものであったと、振り返り未練を感じております。
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近畿大学への入試試験が終わり、国立の前期日程の試験に向けて、引き続き勉強を致しておりました。推薦入試試験は考えておりませんでしたが、担任教師からの勧めで推薦入試試験を受験することに致しました。推薦入試試験は2大学受けました。その内、初めに受けた大学は福岡県北九州市にある大学で、国立の理系専門大学でした。試験は数学の専門面接試験でした。答えられないことはございませんでしたが、残念ながらその大学との巡り合わせはございませんでした。その大学に合格することが出来ていれば、また違う未来が見えていたのだと感じております。
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推薦入試は2大学受験致しましたが、初めは九州工業大学、次は徳島大学でした。九州工業大学は滑りましたが、徳島大学には合格致しました。推薦入試で合格し、勉強する必要は無くなりましたが、皆が前期日程に向けて勉強をしておりましたので、私自身も勉強は止めずにおりました。クラス一丸となって志望校合格に向けて頑張る、その姿が私自身も好きでありましたので、しっかりと付き合っておりました。高校生活3年間は自分自身本来を隠して、同調して生きてきた3年間であったと振り返ってみて感じております。
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今治北高校の卒業式は、毎年3月1日にございます。高校生活は様々な思い出がございました。私自身は、案外と華々しい高校生活でございました。高校3年間で学んできたことは、無駄なことはございませんが、本来の自分自身を隠して生きてきた、そんな生活でございましたので、精神に異常をきたしておりました。そのことに私自身を初め、周りも全く気付いてはおりませんでしたが、よくよく考えるとしんどい暮らしぶりであったと反省致しております。自分自身を周りが理想とする姿で演じる、それが現在の私は出来なくなってしまったと感じております。

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