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私達の取り組み


『が』小分け版㉓
|今治港《いまばりこう》周辺は、当時は活気がございました。活気があった、とは言っても私目線から見て、というだけでございます。高校生の頃の私は弓道に|邁進《まいしん》しておりましたので、結局のところ、今治市のことなど何も見ておりませんでした。当時を振り返ってみてみると、今治の地に|根付《ねづ》いた|何某《なにがし》かの人や物で|溢《あふ》れております。当時と比べて、全く変わらないお店もございます。当時とは、全く風景の変わった場所もございます。ヒトである限り、ヒト目線で物事が進んで行くのもやむなしと私個人は思います。
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6月25日読了時間: 1分


『が』小分け版㉒
|今治港《いまばりこう》をフェリーから降りて割と直ぐの所に|今治商店街《いまばりしょうてんがい》がございました。現在はシャッター街となっておりますが、当時はまだまだ|賑《にぎ》わっておりました。私は元来から本を読むのは好きでしたので、商店街にある本屋さんには、ちょくちょく足を運んでおりました。本屋といえば、大島にも本屋がございましたが現在は一軒も無くなり、私自身としては寂しく感じております。大島も年々、人口の減少が続いております。島の暮らしは良き面もございますが、利便性は|乏《とぼ》しいものです。
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6月23日読了時間: 1分


『が』小分け版㉑
大島フェリー内では、大勢のお客さんが乗っておりました。大島の人口は年々減少しておりましたが、それでも客席がぱんぱんになるくらいの人達が載って居りました。フェリー側もそれを完全に熟知しておりますので、様々に|配慮《はいりょ》があったなと、今現在、思い返しております。現在は、大島フェリーの運行は完全に無くなりました。代わりに道の駅である“いきいき館”が出来ました。しまなみ海道が開通した事に依る|功罪《こうざい》の一つでございます。
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6月21日読了時間: 1分


『が』小分け版⑳
大島フェリーは割と大きな|旅客運搬船《りょかくうんぱんせん》であります。自動車だけでも50台は乗せられます。私は、自転車をそのまま自転車に積んで載っておりました。当時は、自転車を2台持ちして大島の|下田水港《しただみこう》と今治の|今治港《いまばりこう》で|乗《の》り|継《つ》ぎしている方もかなりおりました。私は、乗り遅れた時に定期券が|客人《かくじん》のみだと|余分《よぶん》に払わなければならないと思いましたので、自転車定期券を使っておりました。
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6月19日読了時間: 1分


『が』小分け版⑲
フェリーは定期券で乗っておりました。その方が|大分《だいぶん》と安いからです。大体の学生は定期券で乗り降りしておりました。|流石《さすが》に毎日のように乗るフェリーですので、そこは確実にやっております。こういう私ですが、定期券は|失《な》くしたことがございません。これは、携帯やスマホにも言えることで、こういうモノは失くさない確信めいたモノを私は持っているのかもしれません。他の物は失くします。鉛筆や消しゴム、シャーペンやはたまたコンパス、筆箱に|至《いた》るまで失くした記憶ばかりです。そういえば、お気に入りの|矢筒《やづつ》、あれは|今治市営弓道場《いまばりしえいきゅうどうじょう》に|置《お》き忘れたままだったな。
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6月17日読了時間: 1分


『が』小分け版⑱
朝のフェリー乗り場は|大渋滞《だいじゅうたい》でした。当時は|来島海峡大橋《くるしまかいきょうおおはし》を自動車で渡るよりも大分フェリーの方が安かったので、皆がフェリーを使っておりました。現在はそのフェリーは|運航停止《うんこうていし》しておりますが、あの時代には無くてはならない重要な交通の要でございました。私は大島から一人で|今治市内《いまばりしない》に外出することは|殆《ほとん》どありませんでした。ですので、今治市内の|地理《ちり》も|全《まった》く理解できておりませんでした。今思えば、当時のあの|環境自体《かんきょうじたい》が私を成長させていたのだなと実感致しております。当時はそのフェリーから花火を|観《み》ることも出来ておりましたね。
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6月14日読了時間: 1分


『が』小分け版⑰
私の実家は|大島《おおしま》という島であります。そこから|今治北高校《いまばりきたこうこう》へ行くのに自転車とフェリーを使って通学しておりました。総通学時間は1時間でしたが、その半分はフェリーの中という、楽な通学だったとも言えます。フェリーの中では、皆が思い思いのことをしておりました。私は、宿題をフェリーの中ですることが日課になっておりました。このフェリー時間こそが、私に|休息《きゅうそく》と|安寧《あんねい》を与えていたとも言えます。通学路は山を登って下りてがございましたので、大変でした。これこそが、|自転車通学RTA《じてんしゃつうがくあーるてぃーえー》の最大の難関だったとも言えます。
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6月12日読了時間: 1分


『が』小分け版⑯
1-4のクラス担任は確か|濱本《はまもと》先生という方でした。女の先生で、とても若い先生でした。1-4クラスは先生と生徒が和気あいあいとしていて、とても良い雰囲気のクラスが出来ていたように私は感じておりました。のちに3年間クラスを共にする生徒も居て、とても楽しかったです。こういう最初の1年間を過ごせたからこそ、思い出が楽しいモノばかりになったのではないかと私は感じております。その頃から、もう20年以上の月日が流れてしまいましたが、|皆《みんな》はどんな人生を過ごしているのか気になります。
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6月10日読了時間: 1分


『が』小分け版⑮
話は戻りまして、私はそんな調子でしたので、高校時代は「楽しい」しかございませんでした。今思うと、苦しいことも沢山ございました。泣きたくなるような耐え難いことも、もちろんございました。ですが、過去のことは全てが現在の|糧《かて》となり息づいている、私自身は|楽天家《らくてんか》ですので、そう思っております。これからの人生も浮き沈みございますが、|一KOH《いっこう》をやっていきます。もちろん、このエッセイはここで終わりではございません。
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6月6日読了時間: 1分


『が』小分け版⑭
|今治北高校《いまばりきたこうこう》の弓道部に入部した私に待ち受けていたのは、|基礎体力向上《きそたいりょくこうじょう》のための|訓練《くんれん》でした。|声出《こえだ》しや|筋《きん》トレ、ランニングなどを|何カ月《なんかげつ》にも渡ってやっておりました。同じ様に入部した仲間も何人か|辞《や》めていきました。私はどうしても|一度入部《いちどにゅうぶ》した部活は辞めないぞという決意がありましたので、苦難の|道程《どうてい》ではありましたが、|着実《ちゃくじつ》にステージを上がっていきました。ここで|培《つちか》った|精神力《せいしんりょく》は、現在でも|凄《すご》く役に立っております。ただ、当時は|自分本位《じぶんほんい》が|過《す》ぎた性格でありましたので周りが良く見えていなかったことに関して、深く反省しております。
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6月1日読了時間: 1分


『が』小分け版⑬
|今治北高校《いまばりきたこうこう》は当時は全部で8クラスありました。私は1-4にクラス分けされました。中学の時の同級生も居りましたが、クラスではあまり仲良くはしませんでした。後は異性の同級生でしたので会話もままならず、初めの頃はぽつんとしておりました。ですが、それも|一時《いっとき》のことでクラスの友達が出来、その友達と共に部活動巡りをしておりました。私は当初から弓道部に入りたいと思っておりました。体力増進もそうですが、弓道という競技は愛媛県では高校生になってから始める人が多かったからです。誰もが皆が初心者、これなら私でも食らいついていけることだろう、そう思い入部を決意致しました。
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5月29日読了時間: 1分


『が』小分け版⑫
|今治北高校《いまばりきたこうこう》に入学した私に待ち受けていたのは、天国でした。学力こそ|最低《さいてい》ランクで入学したものの持ち前の気力・体力・自信力で乗り越え、|悠々自適《ゆうゆうじてき》な生活を送れました。部活動は弓道部に入りました。私は高校三年間、弓道に“命を捧げた”といっても|過言《かごん》ではないくらい、弓道に|心力《しんりょく》を|注《そそ》ぎ打ち込みました。高校生活は、弓道人生だった。とも言えます。弓道部に最初に入部した理由こそ、体力の|増進《ぞうしん》に努めたい! という理由でしたが、まあ面白かった。女性にモテたかった自分は、弓道によってどこかに吹き飛んでしまいました。
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5月24日読了時間: 1分


『が』小分け版⑪
私が|今治北高校《いまばりきたこうこう》へ入学した一番の|理由《わけ》、それは女子にモテたかったからでございます。その他にも、自分の|内申書《ないしんしょ》がそこそこだった、家からそれほど遠くなく、自転車で通えた、中学の同級生も何人か行っていた、などの理由がありますが、そこはそこで大した理由ではありません。今治北高校は旧女学校であります。|男女共学《だんじょきょうがく》となって年数は約45年ほど経っていたとはいえ、男女比が約4:6と他の高校と比べても高く、これならば中学で何の巡り合わせもなかった私にも春が訪れるであろうと期待しておりました。
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5月23日読了時間: 1分


『が』小分け版⑩
|吉海町立吉海中学校《よしうみちょうりつよしうみちゅうがっこう》に通っている頃に、少年式というものがございました。この学校行事に関しては、私の中の別作品にも書いております。14歳となり、大人としての自覚も芽生えてきた頃でございました。その頃に食べたお餅がとても美味しかった記憶は|筆舌《ひつぜつ》に尽くしがたいです。この様な小中学生時代を経て、私は|愛媛県立今治北高等学校《えひめけんりついまばりきたこうとうがっこう》へと進学いたします。その頃の思い出は、とても印象深いものばかりでありましたので、しっかりと書いていきます。
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5月19日読了時間: 1分


『が』小分け版⑨
吉海小学校の時の部活動として、陸上・駅伝・ミニバスケットボールがございました。季節毎に持ち回りで行っておりました。私はそのどれもに参加しておりました。陸上では50メートル走と50メートルハードル走、駅伝では1500メートル走や2000メートル走、ミニバスケットボールではフォアードをやっておりました。当時の私からしたらどれも過酷なものでしたが、負けん気は人一倍強かったので、一生懸命に頑張っておりました。中でも駅伝は得意競技で大会レギュラーにも選ばれました。
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5月17日読了時間: 1分


『が』小分け版⑧
|吉海町立吉海小学校《よしうみちょうりつよしうみしょうがっこう》に通っている頃、学校内に新しい遊具が備わりました。竹馬、一輪車、ホッピングなど、色々な遊具が備わりました。昔は10分がとても長かったので、休み時間になると外に出て遊んだりもしていた気が致します。何かの記念イベントで空撮撮影もございました。皆で人文字を作って、撮りました。その写真も今やどこにあるのかも分かりませんが、楽しい思い出の一つとして残っているものではございます。思い出すのが中々に大変なのですけどね。
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5月16日読了時間: 1分


『が』小分け版⑦
小学校1年生〜小学校2年生へと進級する手前、私は|弓削町立弓削小学校《ゆげちょうりつゆげしょうがっこう》から|吉海町立吉海小学校《よしうみちょうりつよしうみしょうがっこう》へと転校致しました。弟が小学1年生で私が小学2年生の時でございます。弟は入学式で6年生に手を引かれ、入学式を迎えておりました。その後、|何某《なにがし》か時は流れ、私は高校生になります。その間のことは中々に思い出したくございません。私にとっての小中学生時代は、余りによくないものだった様な気が致します。その中でも、楽しかった思い出を思い出して書き出しております。
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5月10日読了時間: 1分


『が』小分け版⑥
住んでいた|弓削島《ゆげじま》には、信号機が一つもございません。ですから、私たちは警察官の|方々《かたがた》が用意して下さった|模擬《もぎ》信号機で、|横断歩道《おうだんほどう》の練習をしておりました。弓削島からフェリーで海を渡ると、|因島《いんのしま》がございます。そこには当然、信号機がございます。ですから、初めて信号機を|観《み》た時は、青・黄・赤の信号機がとても楽しく感じました。このエピソードは、私の『|百音短詩《ひゃくおんたんし》』|内《ない》でもご説明はしております。スタントマンが来て、いろいろとして下さっていたのも、今思えばすごくわざわざ島まで来てご|足労《そくろう》されていたのだなと感じます。
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5月8日読了時間: 1分


『が』小分け版⑤
|官舎《かんしゃ》から小学校まで、約2キロメートル程の|道程《どうてい》がありました。小学一年生の私にはとても|過酷《かこく》であり、「なんで毎日、こんなに重い物を|背負《せお》って登校しなければいけないんだろう」と思っておりました。今思えば、その経験があったからこそ足腰が強く|鍛《きた》えられたのかと感じております。|後述《こうじゅつ》致しますが、私は走ることが好きであります。|出不精《でぶしょう》ではございますが、週に3回、ジムに通ってジョギングしていた頃もありました。何故かわかりませんが、同じ所を一定のスピードで走るランニングマシンの方が、|外界《がいかい》を走るよりも|好《この》みます。
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5月6日読了時間: 1分


『が』小分け版④
小学生の頃は、『うしお』という俳句・短歌・詩・作文を|東予地区《とうよちく》で|纏《まと》めた|冊子《さっし》が|出版《しゅっぱん》されておりました。この『うしお』ですが、当時の私にとっては大切な宝物の一つであり、毎回楽しみにしておりました。友人や自分自身が|載《の》ると、なんだかちょっとした有名人になったような気がして|喜《よろこ》びを感じておりました。この時の喜びは、現在の自分の中の執筆活動に似ている部分があるなと感じております。|偶《たま》に、入選や|佳作《かさく》にも選ばれておりました。
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5月4日読了時間: 1分
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